襄と八重9 快風丸で函館へ


文久3(1864)年2月13日将軍家茂は、江戸城を発して上洛の途についた。老中水野史精・板倉勝静以下が従い、高田藩主榊原式部大輔政敬・小倉藩主小笠原大膳大夫忠幹・伊予松山藩主久松隠岐守勝茂がその前後を守り、総員約3、000人が3月4日に入京して二条城に入った。翌5日夜慶喜は将軍の名代として参内し、小御所において天皇より、  征夷大将軍の儀、すべてこれまで通り御委任遊ばされ侯べし。攘夷の 儀精々忠節を尽くすべき事。という勅書を受けたのである。将軍家茂は、21日京都を発して大阪に向かい、翌日慶喜も江戸に向かって出発した。このころ生麦事件の賠償問題はいよいよ紛糾し、日・英の国交は正に危機に直面していた。
元冶元年(1864)3月初旬、新島しめた七五三太(じょう襄)は江戸市中を歩いていると、偶然にも以前に快風丸に同乗した板倉勝静の家臣である加納・柏原らに出会った。そして彼はこの船は三日以内に函館に向けて抜錨する準備をしているということを聞いた。そこで彼は急に函館に遊学することを思いたち、その運動を始めたのである。まず藩の目付役の飯田逸之助にその斡旋盡力を乞い、快風丸の所有者である安中藩板倉家の本家である松山侯を通じて藩主に歎願した。その目的は、洋学者や洋式砲術家の旗本川勝広道に学んでいたが、函館の武田斐三郎方へ入塾し、かたわら洋人について英学を研究するということであった。武田斐三郎は、伊予国大洲藩士。武田は英学、仏学を修め、とくに航海、築城、造兵を学んだ。のちに五稜郭、弁天崎砲台の築造にも関わる。武田は、八重の兄山本覚馬ともいっしょに学んだ仲だから、奇遇といえば奇遇だ。松山侯(板倉勝静)の斡旋が効を奏し、藩主から許可が下り、一ヵ年間修業し、その費用は特別のはからいで、御勘定所より金15両を貸すから、帰国後に返還せよという条件がつけられた。祖父や父母の承諾も漸く得られた。祖父だけは、敬幹(襄)が日本を脱出して外国に行きたがっていると見抜いていた。
こうして彼は同年3月12日、塩田虎尾(亀太郎)の好意で快風丸にのり、品川を出帆したのである。塩田虎尾は備中松山城下石火矢町(現・高梁市)の田那村吉郎の四男。兄作人は大小姓格・70石取。 養祖父、仁兵衛は備中松山藩士、中小姓並・10石3人扶持。山田方谷は、嘉永2年(1849)藩の元締役(兼吟味役)になった時、藩財政の全権を握る会計長官であった為、金回りが良いように思われ、痛くも無い腹を探られるのが嫌で、自分の家計を仁兵衛に依頼し、万事を仕切らせ、自分は一切家計に手を出さなかった。  養父、秀司は、山田方谷が江戸で西洋流の砲術を学んで帰った後、幕臣・下曾根金三郎の門に入り砲術を学び、評判の高弟となる。後に虎尾も江戸に出て江川太郎左衛門の門に入り砲術を学んだ。新島は明治13(1880)年に高梁に布教に来た際、松山藩元藩士・原田亀太郎の実家を焼香のため訪ねた。原田亀太郎とは、新島が密航を企てた元治元年、藤本鉄石や吉村寅太郎らと大和で挙兵した「天誅組」のメンバーで、京都堀川の獄舎で斬に処せられた人物である。新島より6歳年上で江戸藩邸で共に川田から漢学を学んだ同門だった。
彼が出発当日に、安中藩江戸詰の上士で、彼の家と親交のあった菅沼錠次郎に宛てた書状には、大要次のような一節が認めてある。
今度私は箱楯(函館)に行くことについて、一切相談もせず、なおまた御暇ごいの挨拶にも参上できかねるかも知れないので、一筆申上げる。右の箱楯行の件は、三‐四日前から騒ぎたてて、日夜奔走し、眠ることさえ出来ない状態である。且つ今日の夕刻には、周        防守(勝静)様の御船へ乗り込むことに相なり、一寸拝顔いたし度く思うが右の様な次第であるから、若し参堂出来なかったら何卒御許しを願う。
「快風丸」で箱館に着いたのは、品川を出帆して1ヵ月半近くあとの元治元年(1864)4月21日のことだった。

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