襄と八重8 密航の時代


新島襄が密航の準備をしているころ、元高梁藩の谷兄弟が新選組に入隊している。
小説山田方谷の夢 野島 透によると次のように書いている。
谷昌武は1848(嘉永元)年に生まれた。谷昌武の父は谷三治郎で備中松山藩主板倉勝職の家臣である。 旗奉行として元高120石、役料20石取りで藩では上士格に属する家柄である。代々、直心一派、俗に直心流と言われる剣客として知られていた。藩校「有終館」で剣術(直心流)の師範を務めていた。三治郎の息子は3人おり、長男が三十郎、次男が万太郎、三男が昌武である。すぐ上の次男万太郎とは13歳も離れており、長男の三十郎とは親子ほどの年の差があった。
 福西志計子は1847(弘化4)年に、備中松山藩士福西郡左衛門と飛天子の一人娘として生まれた。昌武より約6ヶ月ほど歳上だった。志計子の家は昌武の家の隣の隣で、反対側の隣は方谷の家であった。後に明治期のキリスト教教育者、高梁順正女学校創立者となる。
 熊田総師範代は1825(文政8)年に熊田武兵衛の3男に生まれた。父も新影流の師範であったため、幼少のころから武人としての心構えを教えられていた。若いころ、四国宇和島藩に武芸修行に行き、今治の道場で剣術の試合をした時に相手の竹刀の先皮が破れ彼の眼を突き刺した。熊田は隻眼となったが、日夜精励したので剣の腕前では随一となった。
 原田亀太郎は1838(天保9)年に新町の煙草商原田市十郎の長男として生まれた。昌武より十歳ほど年上である。同志社大学の創立者新島襄とも仲がよく、後に尊王攘夷を主張した天誄組の乱に参加したが、武運つたなく1864(元治元)年に処刑された。明治維新後は名誉が回復され靖国神社に合祀され従五位が追贈されている。新島の密航に協力する。
あるとき谷兄弟の長兄三十郎が藩主の姫君(家老の奥方とも)との密通したということで家名断絶となった。兄弟三人は大阪に向かった。方谷の知人の中山大納言家の侍医岩田文硯が親身になってくれ、岩田家で世話になることになった。 文硯は武道を好み、自分自身も鎌槍をやっていた。 直心流剣術と種田流槍術に優れていた万太郎は文硯に目をかけられ、文硯の次女スエを妻とした。 文硯の世話で大阪北新町に住んで、大阪南堀江の、岩田文硯宅にて剣術道場を開設した。
老中板倉勝静が「浪士掛」も兼ねていた。近藤ら京都残留組に対する差配の命令が1863年3月に老中板倉勝静、京都守護職松平容保に下された。3月12日には京都残留組は会津藩預かりとなり「壬生浪士組」となった。9月になると「壬生浪士組」に「新選組」の隊名が与えられた。
新選組が活躍している状況を見て、腕に自信のある三十郎、万太郎は昌武を連れて1863(文久3)年8月、新選組に入隊した。新選組で一旗挙げようと考えたのである。昌武もまた新選組で名をあげるという夢を持った。
入隊後の元治元年、長兄・三十郎は新撰組の主導権を握りたいと考え、人の良い近藤勇を取り込むため、末弟・昌武を松山藩主板倉周防守の御落胤と偽り、近藤勇と養子縁組させてしまう。近藤は武州多摩の農民の出であるがゆえに貴種に対する憧憬が強く大いに喜び、昌武を改名、近藤周平とした。
この時代、板倉勝静は老中として幕府を支える矢面に立たされる。方谷は政治顧問として意見を具申している。当時アメリカ、イギリス、フランスなどの列強は帝国主義を標傍し、日本にも進出しようとしていた。もし日本が内乱となれば列強はそれぞれの背後に付き代理戦争と発展、日本は植民地となっていた。方谷は政治顧問として意見を具申している。1867年には方谷が大政奉還の原文を書き上奉している。この年、パリ万国博に20数名が派遣されている。薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示している。

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