襄と八重7 旅立ち前


安中藩の敬愛する添川廉斎が1858年に死去、悲嘆に暮れていた新島の新しい漢学の先生となったのが親戚藩・備中松山藩の藩儒「川田甕江」だった。
山田方谷は、希望して西方村長瀬の一軒家に移住し土着政策を自ら実践する。長岡藩士河合継之助来遊してる。1860年には、再び元締役をかねる。 桜田門外の変が起きる。
1861年2月、江戸で勝静の政治顧問となる。勝静、井伊直弼に意見したことが認められ再び奏番者兼寺社奉行に返り咲く。4月、病気のため帰国。5月、元締役をやめる。
この頃、川田は方谷の命をうけ西洋式の大型船の購入に東奔西走していた、川田は安中藩の新島らに漢学を教えに行くたびに、西洋船購入の苦労話をしていたのではないだろうか。そして、1862年、備中松山藩は1万8000ドルでアメリカから大型帆船「快風丸」を購入した。この年は 板倉勝静、江戸幕府 老中に任命される。方谷、再び江戸にて勝静の顧問となる。11月、将軍家茂にあい勝静を通して攘夷を進言する。顧問の辞職を許され、準年寄役となる。
同時期、新島は1860年に江戸湾でオランダ軍艦を見て、その偉容に驚愕し、幕府の軍艦教授所(軍艦操練所)に通い、数学、航海術を学ぶなど、大型船への興味を増していた、川田は快風丸の処女航海にあたり、教え子であり、軍艦教授所へ通っている新島に初航海の協力を求めた。
快風丸の初航海(1867年)、江戸から松山藩の飛び地玉島までの長旅の中で、新島は広い世界を知った、のちにこのたびの記憶を綴った「玉島紀行」の中で新島は「この航海は私にとって非常な喜びだった。私の青春のすべてを過ごした江戸藩邸、天は4角である、と思うようになっていたあの場所から遠く離れて生活したことは、とても為になった。いろいろな人と会い、様々な場所を見るという初めての体験をした。この航海によって私の精神的な視野がうんと広がったことは明らかである。」と追懐している。
当時は志士が四方に起り、勤王派と佐幕派との対立はいよいよ激しくなっていた。新島は勤皇を欲していたが、安中藩は佐幕派と結んでいたため、彼は非常心苦境に立っていた。
快風丸での初航海の翌年、一日友人杉田廉卿(杉田玄白の家系)の宅を訪ねた時、書斎に一小聖書抜萃の在るを発見し、借受その夜、初めて天地の神に就て知ることとなった。廉卿が襄にキリスト教を教えたとされる(太田雄三『新島襄』)。
中国における耶蘇教史(プロテスラント)は1807年(文化4年)R=モリソン (Robert Morison(1782~1834)馬礼孫)の渡来から始まるが、その後慶応3年(1867)までに漢訳キリスト教書が出版されている。
「予を造りし者は誰ぞや、父母なるか、否父母にあらずして神なり、予の机を造りし者は誰ぞや、匠人なるか、否匠人にあらずして神なり、神地上に樹木を生ぜしめ匠人をして其樹木を用ひて予の机を造らしめ玉へるものなり、かく考ふるとき予は神に感謝し、神に信頼し又神に対して正意誠心を尽くさゞるべからずと、此時よりして予は切に英訳の聖書を研究せんと欲し英米の教師に就て教を請はんがため(略)」
 聖書そのものを本格的に研究したいと考えるようになったというのだ。むろん思いつきで日本脱出に踏みきっだのではなく、まずは日本人の英語教師に習って英語を理解することに努めた。英書の辞書や文法書も手に入れて自らも終日英語の学習に費やしたというのである。
 この期、襄が国禁を犯して外国に赴くとすれば、一族郎党になんらかの危害が及ぶかもしれない。
 しかし襄がそのことに悩みをもちつつも最終的にその感情を放棄することができたのも、「予を造りし者は誰ぞや」との問いに、それは父母ではなく、「神なり」との考えで自らを納得させようとしたからであろう。(八重と新島襄 保坂正康)
方谷は1863年 2月、江戸より帰国する。4月、京都にて勝静の顧問となる。(このころ強く勝静に老中辞職を進言するが実現せず。)6月、京都より帰国する。意見の異なる勝静に抗議して登城を拒み、長瀬の自宅にこもる。
そして転機、新島襄が1864年3月藩船快風丸で横浜から乗って函館に向かう日が近なってきた。

1 木村のマーチャンさん
 [削除] 2013年05月10日 23時24分
新島襄が快風丸で初航海したのは、前回の日記で1862年になっていましたので、単に2を7に見間違えたものと思います。キリスト教を知ったのが、密航前年の1863年ですか。当時はまだ禁教令が生きているはずなので、その取扱い、教義の授受はかなり気を遣ったのでしょうね。杉田玄白も密かにキリスト教の研究をしていたということになるのでしょうか?密航を覚悟するほど、襄にインパクトを与えたのは誰か、どのようにしては、とても興味があります。

2 あきちゃんさん
 [削除] 2013年05月11日 06時53分
ありがとう。年号の変換に苦労します。
杉田廉卿は玄白の曾孫(養子)で《蘭学事始》の写本を出しています。津山藩の宇田川の家系もこの当時活躍しています。岡山県立美術館で5/31~6/30http://b.okareki.net/で美作の洋学について展示・講演があります。方谷も砲術など学びに行っています。
当時の知識人は密かにキリスト教の研究していたでしょうね。
世情が不安定となり、皆模索したでしょう。
新島が高梁藩、勝静、方谷に信任を得ていたことが良くわかります。密航に高梁藩の人物が深くかかわっていたことより藩として送り出した可能性があります。

3 野崎のさん
 [削除] 2013年05月11日 14時24分
船を知って、キリスト教を知って、英語を知っての密航だったのですね。これで安心しました。やみくもに密航したのかと思っておりました。
年号交換、以前エクセルで一覧表にしました。会社の昼休みを利用して作りました、「お墓の年号を読むのによい、一部ほしい」と言った同僚がおりました。

4 あきちゃんさん
 [削除] 2013年05月12日 06時51分
野崎のさん
 大志をいだき脱藩した人、脱国に中で名をの残した一人ですね。多くの人の影響と協力があったことがよくわかります。時代が育てた人物でしょう。
 年号は変換ソフトを使っています、1~3年ごとに変わった時代です。寛 政、文化などの墓碑がありますが古くなると拓殖をとってもよく読めません。ある日、雨のあと西陽が当ったとき読めたことがありました。その墓も風化して今では読めません。

Explore posts in the same categories: 未分類

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中


%d人のブロガーが「いいね」をつけました。