矢坂山 ツツジ祭2013


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P1070485矢坂山の桜、ツツジが楽しむため企画しました。桜の開花が1週間早くなり染井吉野は終わってしまいました。ツツジは寒さ戻りで満開前で止まっていました。
山の散策の前に講演会の時間を設けました。
恒例となり来年も4月12日(土)に開く予定です。

1部 講演会
演題:落城後の松田氏と冨山氏の後裔
講師:玉松会会長(松田家主従の会、香川県詫間在住)
場所:大野コミュニティーハウス
受付:平成25年4月13日(土)9時より
定員:28名
会費:500円(資料代)
講演:9時30分より10時30分
 演題はダイシチャンに書いていただきました。達筆でビックリしました。
 
2部 桜・ツツジ散策会
集合:大野コミュニティーハウス
会費:無料
昼食・飲み物:各自持参 20名参加
出発:平成25年4月13日(土)11時
行程: →魚見山 →すべり山 →富山城二丸跡(昼食) →本丸跡 →鯉ケ池 
→野山尾根 →野山見晴台 →法事古墳 →大安寺駅方向 →ハウス帰着14時 

2013.4,13
落城後の松田氏と冨山氏の後裔
 香川県三豊市詫間町
 玉松会会長   松田 充弘

[落城までの経緯]
 松田氏は藤原氏で関東の御家人であった。承久の乱(1221)の戦功に依り 足利将軍より相模の国松田郷と将軍家の紋章「二引両」と姓を賜り松田城の城主になる。松田氏は 「奉公衆」で室町幕府足利将軍直属の軍事力で幕府を支えていた。
 その後建治2年(1276)横浜神奈川(金川)の七曲山城・城主になる。
 建武元年(1334)松田十郎盛朝が備前国守護職になる。
 矢坂山の冨山城を冨山氏から奪い城を整備し本拠とする。
 2代城主元喬は大覚大僧正と出会い法華宗に帰依し、真言宗から法華宗に改宗。
備前に法華宗を流布し善政を布く。
 8代元成は本拠を金川に移し守備を固める。
 永正6年(1509)9代元勝は京都公卿の三条西実隆公に命名を依頼し「玉松・麗水」の二書を賜り玉松城と命名する。
 永禄11年(1568)宇喜多直家の謀略に依り玉松城は落城。13代元賢の弟左門盛明(元脩)冨山城主は急を聞き、混乱に紛れ玉松城に入り防戦をするが父親の元輝は討死、兄の元賢と元脩は命運を悟り城を脱出。然し雑兵に元賢は討死、元脩は備中方面に落行。元脩は毛利家に属す。

[秀吉の中国毛利攻め]
 天正10年(1582)3月豊臣秀吉の毛利攻めが始まり、高松城水攻めの時、元脩は冠山城に籠もる。天正11年宇喜多秀家は父直家の松田家に対する不義を悔やみ松田氏の再興を念じ元脩の妹の夫、直家の弟・春家の病死に伴い、遺児・右衛門丞の後見人を依頼され、奥郷(児島)の小串城八百石の城主になる。余談であるが秀家の正室は前田利家の娘・豪姫である。

 〔壬辰倭乱〕
  文禄元年(1592)元脩は秀家に随い嫡子の元起と共に出陣。その時元脩は52歳、元起が19歳になっていた。

〔関ヶ原合戦〕
 慶長5年9月15日(1600)秀家は西軍の総大将、西軍は敗戦により元脩は翌月10月に一族郎党25名で直島に逃れる。

 〔讃岐に移住〕
 慶長7年10月 讃岐高松城主・生駒一正を頼り香西堀之内に遁世する。時に元脩60歳、元起29歳になっていた、落城時元脩は26歳であったが34年間お家再興のために生涯を尽くした。

 〔詫間村の開発〕
 丸亀藩生駒氏より詫間村の新田と塩田開発を命じられ元起の次男・傅内を香西に残し長男甚右衛門尉元明は干拓工事にて60町歩の新田と30町歩畑の潅漑工事、7町歩の塩田開発を行い半農半漁の寂れた郷の繁栄の礎を成す。後に45町歩の松田塩田を開発・地域の基幹産業と成り、大庄屋・塩田王・近代では代議士・県会議長・村長・町長・三越百貨店社長など各産業で尽力す。一方香西の傅内の子孫は高松市鶴市の松田孫三郎で五か村の大庄屋になり、文化5年(1808)伊能忠敬の測量の案内を務めた。
現在「海岸測量日記」活躍ぶりを克明に記されている。

 〔詫間・高松・冨山氏〕
 讃岐詫間冨山家の系図に依ると、遠祖は藤原氏で紀州湯浅姓である。備前に来て矢坂山山頂の小字・冨山・の地名を名字にしたようである。備前松田氏が冨山氏の城を奪い松田氏本拠の城と成り、冨山氏と主従関係で治世す。落城後・冨山六兵衛重信は松田氏と同様に讃岐高松城主・生駒一正公を頼り高松に来讃。その後重信は生駒氏より詫間村に知行(高65石)を与えられ、また高谷山を馬の牧草地にする事を許された。生駒氏より再三にわたる仕官の勧めを断り、松田氏と共に詫間村の開発を行う。詫間に移往時重信は弟の六良右衛門と甚三郎の二人を高松に残した。詫間に住した冨山氏は産土神の浪打八幡宮に元禄三年(1690)冨山市郎右衛門と冨山多左衛門は末社九宇を寄進。享保八年(1723)に御輿三躰造営時に五ヶ村の庄屋として、また天明二年(1782)に御殿上葦、拝殿等再建時に作事奉行をしていた。宝永三年(1706)冨山安兵衛が津島神社を建立。(古今讃岐名勝図絵参照)寛延三年(1750)西讃百姓一揆時に冨山安兵衛(襲名)は多度津藩の代官であった(多度津町誌参照)幕末には医師・冨山謙益(号・凌雪)は勤王家としで著名な琴平の日柳燕石と親交かあり和歌連歌を嗜む。(詫間町誌参照)等々地域の産業文化に貢献現在に至る。
 囚みに讃岐初代冨山六兵衛重信の娘は詫間住初代松田甚右衛門尉元明に嫁いでいる。
 一方、高松に残した重信の弟、冨山六良右衛門と冨山甚三郎の子孫冨山家(法華宗)は、高松城下で豪商「三倉屋」と分家の「西三倉屋」を営み讃岐随一の豪商と称される隆盛ぶりである。
 三倉屋は明治末期まで11代続く豪商で、宝暦11年(1761)5代目市太夫宗有は与謝蕪村を招き、蕪村は琴平を経て三倉屋に逗留した。当主宗有の厚遇を受けた蕪村は、5年後明和3年の秋、再び三倉屋を訪れ翌春までとどまり、更に三たび讃岐路に足跡を印している。

 三倉屋のもてなしと、この国の風土が、蕪村には余程、心にしみたのであろう。そして八代から十代、天保ごろから明治にかけて、うたわれた俗謡がある。
「松が見えます高松さんが  あれば御城の三倉屋か
  あの三倉屋に過ぎたる物が  三つあるのを御存知か
   一に茶杓に、二にかかあ   三に灯龍は大名なみだ」
 と流行り唄が盛んであった。「かかあ」とは三倉屋の内儀が京都公卿の娘であったので¨過ぎたるもの¨ の一つにうたわれた次第。そして毎年秋になると、備前の所有田地から莫大な年貢米が海渡って運ばれて来ていた。(不自然な面もある)だから農村などで、土木工事や寺社の造営などが行われるときには、三倉屋に頼めば、二つ返事で費用の大半は負担してくれたので、地方の人たちからも、「三倉屋のお大尽」と尊敬されていた。
 その三倉屋も11代克堂の時代になると、悪い番頭が酒色におぼれて、主家の財産をつまみ食いもあり次第に落ち目になった。明治40年ごろには讃岐随一の財閥も、ついに、高松城下繁華街の五千坪を越えた大邸宅を人手に渡す羽目になり、その屋敷あとは、大正から昭和初期にかけて、南新町の空き地という地名のみを残し、大相撲の地方巡業やサーカス、見せ物小屋の興業場所に使われるようになった。
                      (著者・荒井とみ三●高松今昔記を参考)
 〔金川屋佐平太〕
 讃岐琴平・表参道「一の橋」のたもとに、造り酒屋を営む、豪商「金川屋」があった。
菅佐平太は、菅暮牛のことで、菅家は代々俳人を輩出している。この家は備前金川の出身の菅氏である。金川に菅神社(すげ)があり古い時代に松田氏の城が有り同族と推測される。菅家の菩提寺は丸亀妙法寺である。妙法寺は落城後来讃した松田氏と冨山氏の菩提寺であった。寛文6年(1666)日蓮宗不受不施派の法難で妙法寺は天台宗に改宗している。しかし改宗しても内実は不受不施の信者が出入りしていた。私家に幕末に寺子屋を開いた金川屋佐平太(松田竹二郎)の短冊がの残され俳号は「水寿海」で俳諧でも菅家と交流が親密であったようである。

〔与謝蕪村〕
前述の三倉屋と金川屋に俳諧で著名な与謝蕪村が関わっている。現在蕪村寺と称される、丸亀市の妙法寺に蕪村の描いた「蘇鉄の図」が国の重要文化財に指定されている。
蕪村は高松(三倉屋)~丸亀(妙法寺)~琴平(金川屋)を往来逗留しているが、宗門改めての厳しい折から、蕪村を通じ信仰の交わりと結束を垣間見ることができる。

[吉備津神社本殿造営と松田氏]
 2009年玉松城命名五百年記念公演で岡山市出身の東京大学資料編纂所所長・榎原雅治教授のお話しがありました。岡山県に国宝建造物が吉備津神社と閑谷学校の二つありますが、榎原教授のお話しに依りますと、吉備津神社本殿に松田氏が造営者であることを記す、棟札が発見されました。松田氏は足利幕府直属の武士団「奉公衆」でありました。
応仁の乱以降は足利将軍権力は弱体化し、松田氏は将軍から細川氏との関係が次第に強くなりました。松田氏の名前に・元・がつくのは、細川勝元の一字を賜ったものです。
                                 (他、資料参照)

 [八千草薫さんは備前松田氏末裔]
 女優の八千草薫さんは、映画監督の谷口千吉氏と結婚し谷口瞳さんですが、旧姓は松田瞳さんで詫間松田氏であります。
 この事実を私達は全く知らず、昨年3月に福岡市在住の松田公男氏(玉松会会員)より私に東京から二人お宅にお邪魔したい旨の電話がありました。その後お手紙で女優の八千草薫さんと俳優の松田隆男さんと判り驚きました。八千草さんの慈父は27歳で亡くなり、当時八千草さんはわずか二歳でありました。
丸亀市の妙法寺に慈父が葬られていることを知り初めて、妙法寺(松田氏の菩提寺)にお参りされました。次の日4月17日に私宅に来られ和やかな歓談のあと御先祖が眠る基地にお参りしました。
 八千草さんの家祖は繁栄を極めた松田家で、娘も嫁に出さず、分家する為、詫間・冨山家より養子・元祐・を迎え分家分産しました。初代元祐は天明元年(1781)に没している古屋であります。この分家は落城後の松田家・冨山家・両家の親交の深さを物語る象徴であります。
 本日この矢坂山麓の会場で松田氏・冨山氏両者の血脈を祖とする、八千草さんのお話しを御披露目できること何かの、ご縁ではと嬉しく思います。

以上

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