譲と八重4 方谷の蓄財


中銀新島譲すなわち七五三太が誕生した所で、山田方谷の高梁藩10万両蓄財に話を逸らす。
おかやま財界 2013.3.5「山田方谷の藩政改革“10万両蓄財”の根拠は?」 郷土史研究家赤井 克己さんが興味あることを掲載している。
 方谷の改革により松山藩は財政的にゆとりが出来たことは事実。文久2(1862)年米籍の中古洋式帆船を7150両(18000両説もある)で即金購入していることでもその潤沢ぶりが裏づけられる。だがこれだけで「10万両が蓄財され藩庫に千両箱が山積みされた」証拠にはならない。「蓄財10万両」が一人歩きしているのではないかの疑問がある。
 岡山近世史に詳しい山陽学園大太田健一特任教授によると、“借財10万両8年で返済、蓄財10万両”が初めて活字化されたのは明治44(1911)年刊行の『岡山県名鑑』(杉謙二郎編纂発行)という。山田方谷の項にこの記述があるが、明確な出典根拠はなく聞き書きと推定している。
方谷研究第一人者とされ多数の著作がある岡山市在住の朝森要氏(方谷研究会会長、元関西大学非常勤講師)は「備中松山藩は幕末に朝敵となり多くの資料を焼却した。このため方谷の資料もとぼしく”10万両蓄財”の根拠はあいまいであることは確か」という。 しかし次の2つの事由からある程度の蓄財があったのではないかと推定する。
 第一は三島中洲がまとめた『方谷先生年譜 完』 (編集兼発行者山田準、高梁方谷会刊行)。明治38(1905)年初版、その後版を重ねている同書に方谷が元締役を辞任した安政4年の項に「蓄財10万両のくだりがある」と教えられた。岡山県立図書館所蔵の和綴じの同書にその記述はあったが、「蓄財の記述が正確かどうかを確認する術はない」 (朝森氏)という。
 朝森氏はもうひとつの根拠として方谷の漢詩を挙げる。松山藩は元治元(1864)年の第一次長州征討に従軍、方谷は[十万の貯金 一朝にして尽く]と蓄財を費消してしまったことを詠んでおり 「10万両蓄財があったかどうかは別としても、かなりのカネがこの遠征で消滅した]と推測する。
 『入門 山田方谷』も長州征討のほか幕府から命じられた沿岸警備の海防費、安政2(1855)年に焼失した江戸藩邸の復旧費などにも多額のカネが使われたと見ている。
「10万両は今日の価格でいくらに換算するのか」。太田教授は方谷研究に不可欠のこの根源的な問題も解明されていないと指摘する。確かに10万両の時価換算は研究者によりまちまち。方谷子孫を名乗る研究者は「600億円相当」とし、この巨額の借財を短期間に完済、さらに同額の蓄財をしたことは驚異的、江戸時代半ばの米沢藩主上杉鷹山の改革を上回ると言い切る(『山田方谷に学ぶ財政改革』)。
 上記が概要であるが、1871(明治4)年6月27日、新貨条例が公布された。それまでの、『両』が『円』に名称変更となった。デノミネーションである。1両が1円である。通貨単位として、『両』と『円』は連続している。
 また、中国銀行高梁支店百二十周年記念によると、
第八十六国立銀行は明治十一年12月9日「政府が認めた民間銀行」として、備中松山藩主で老中首座を務めた板倉勝静や同藩出身で司法官、漢学者として活躍した三島中州らが発起人となり創業した。初代頭取は同勘定奉行だった堀周平。によって高梁市に設立した。その後、第一合同銀国との合併などを経て、昭和5年、中国銀行創立に伴い、同銀行高梁支店となった。中国銀行に統合された銀行の中で最も歴史が古い。(山陽新聞)
 その開業検査によると下記の資本となっている。
 金8万円 3,200株之高(但1株ニ付25円 一時入金済)
     内
     金16181円40銭  通貨
     金3440円     起業公債証書 仮証券管理
     金65378円60銭  金録公債証書79730円 但100円ニ付82円 
  『岡山県史 第10巻』には,明治11年11月に国立銀行創立願が出され,翌12年5月高梁市に資本金8万円をもって設立されたとある。金禄公債証書を株式として銀行に吸収することで,旧高梁藩士族の保護・救済に役立てようとしていた。株主の中に,200名近い士族の名を見ることができ,設立の中心的役割を担ったのは旧領主板倉家と若干の側近士族および高梁の大商人であった。 『中国銀行五十年史』によると,第86国立銀行設立の中心的な役割を果たしたのは,三島毅であるとしている。そのほか,初期の経営などについて詳細に掲載されている。
 経済学者ではないが、高梁藩の蓄財は第86国立銀行に継承されたと見るべきではなかろうか。

木村のマーチャンさん
新島襄は、1864年6月に函館より密航で脱国していますが、快風丸で函館に行ったとすると、方谷はそれ以前に船を購入しているわけですね。
松山藩と軍艦操練所との接点はあったのでしょうか?

2 野崎のさん
 2013年04月08日 20時16分
蓄財10万両、本当に今日の貨幣価値になおすといくらでしょうね。方谷の時代が中国の白髪三千丈の頃とは違いますので、それだけの蓄財が本当にあったと思われますね。借財も10万両、これだけどこから何のために何年間で借りたのでしょう。長州征伐には多くの藩が出兵したと思います。どこの藩もこんなにつかったのでしょうか。

3 あきちゃんさん
 2013年04月09日 07時12分
木村のマーチャン
 次回書きますが、譲が成長するころ、方谷は老中板倉勝静の元で藩の財政改革に取り組み成功します。その時高梁藩の物産を運ぶため快風丸を購入します。
方谷は佐久間象山、勝海舟、八重の兄とも親交があり、幕府の軍艦操練所で快風丸の操船術を学び、また譲も学びました。

野崎のさん
 10万両は現在の貨幣価値で600億年ともいわれます。中国の白髪三千丈の頃については教えてください。
借財については各藩あったようですが、高梁藩は5万石に対して2万石しか米の実収穫はなく、また勝静の老中のバックアップのため金を要し、大阪商人から借財していました。
長州征伐は幕府は前尾張藩主徳川慶勝を総督、越前藩主松平茂昭を副総督、薩摩藩士西郷隆盛を参謀に任じ、広島へ36藩15万の兵を集結させて長州へ進軍させる。となっていますがどの程度出費したか不明です。この時高梁では藩士が出兵し、方谷は農民の明農隊を組織し留守を守ります。

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