八浜城 浮田与太郎基家


P1060161 P1060163 P1060168 P1060179 P1060183 P1060192 P1060196 P1060199 P1060206 P1060207 P1060215 P1060216 P1060230 P1060232児島湖堤防を渡った先の八浜城を訪ねました。探していると与太郎さんの案内板があり、405号線沿いに宇喜多与太郎神社がありその隣では与太郎煎餅を売っていました。甘く美味しい煎餅で、戦国時代から伝わる煎餅とのことです。ここでは「足を撃たれ負傷を負った上に持病の脚気が悪化し、八浜に落ち延び竹薮の中で身を潜めていました。追って来た毛利勢は、周辺農民に尋問しましたが、農民たちの態度や素振りから宇喜田基家の潜んでいる場所を突き止め捕らえました。」となっていて、足の神様として絵馬が沢山かけてありました。
与太郎は宇喜多直家の異母兄弟の忠家の長男(春家の子の説もある)で宇喜多与太郎基家です。基家は、宇喜多家が信長に恭順の証として人質を出すよう云われ秀家が幼少にため基家が信長に面会した所、秀家でなくてはならぬと断られた逸話があります。明禅寺合戦にも登場し備前軍記によると幼少のため別人ではないかとされています。
八浜に基家が城を築くに当たって毛利軍と小競り合いのち本格的な合戦となり、基家は鉄砲の流玉に当たり落馬しあえない最後となってしまいました。若干18歳でした。大将がなくなり総崩れになるところ、7人の家臣が活躍したことより「八浜7本槍」として宇喜多軍の結束の深さの話として伝わっています。ところが、文吏派と武将派に分裂し、7本槍派は徳川方に付くことになります。高松城水責めの前の年でした。
毛利軍は水軍にたけ信長を脅かしたように、この時も村上水軍が300艘の舟が出陣しています。八浜は児島湾(今では淡水湖の中ですが)に入り、旭川を登って岡山城を攻めるのに水軍にとって要衝でこの攻防戦です。
八浜城は、ラクダのコブのような両児山の八幡宮に対してありました。桜が多く植えてあり花見が楽しみです。児島湖を挟んで岡山市街地が一望できました。すぐ下には児島湖流域下水道浄化センターがありました。この浄化センターは100万人分の処理能力があります。
八幡宮に階段を上がると、御埼宮と快(こころよし)神社が合祀していました。御埼宮は北長瀬の白髭宮が岬にあったと同様と考えられます。快神社は、「江戸時代末期の神社書上帳によると、昔八浜の海岸に大きな材木が流れ着き、その木に中から音楽が聞こえたので、わってみると衣冠束帯の老翁があらわれた。それを村人がまつったのが快さまであるという。」ポエムのある話です。
漁業組合が寄進したようで漁業・塩田が盛んだったころの八浜の賑わいを伺わせる立派な神社でした。

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