操山ウオーク


P1050817 P1050836 P1050846 P1050848 P1050852 P1050855 P1050859 P1050861 P1050869 P1050879 P1050886 P1050892 P1050903 P1050907 P1050910 P1050920 P1050922 P1050924 P1050926 P1050609 IMG宇喜多_0001-2 P1050619岡山歴史研究会の歴史探訪の操山ウオークに参加しました。操山里山センターに9時に43名集合、今回操山ボラインティアガイドの古墳と神社仏閣の上原、野崎顧問さんの2名に主として案内いただきました。まずセンター内で会長挨拶とスッタフ紹介、上原顧問の操山について簡単な説明がありました。
10時15分に恩徳寺に向けて下る。右手に大師堂があり、両側手は池田の殿様が舟遊びをしていた池だったと説明を聞きながら石造の太鼓橋を渡り、正面の鳥居をくぐると、山門には舟の戸板を外し保存しているのが見えた。恩徳寺は750年に僧行基が創建した真言宗の寺院。太陽の道上にある。本堂の裏に稲荷が祀れている。本堂の縁の腕木庇にはキツネの彫り物が見られ、天井には方位計が描かれている。奥に入ると江戸時代に書かれたミシンが描かれた額絵があり、天井には薬師院である多数の薬草が描かれていた。また本堂の裏の小窓から稲荷を拝観した。本尊は60年ごとで最近開帳したばかり。境内で岩田会員にウオーキングの本格的な安全祈願をしてもらった。2月1日には火渡り行事がある。
柿畑を抜け明禅寺城跡へ急勾配な坂道を上がった。先立つは落ち葉を熊手で掃除してくれた。城跡に近づくと割って落とす戦石が見られた。明禅寺城は東に8km離れた宇喜多直家の沼城(亀山城)の出城として築城し、翌年には備中の三村勢に占拠され、直家は奪還を果たすと共に三村軍を迎え撃って完勝し、その大勝ぶりが明禅寺崩しと呼ばれた。奪い取られた原因は直家の弟の忠家が福岡の女郎との寝夜の時情報が漏れたことが判り、それを逆手に取り郎党がその女郎と懇ろとなり、明禅寺城が奪い帰されたことを4時間後に狼煙によって知った為、2万の軍が引き帰すのに混乱し、宇喜多は5千に兵にも拘らず千丁の鉄砲により逃げる兵を背後より撃ちまくり16000人の死体が無残に野に並ぶことになった日本歴史上残虐な戦いとなった。実に、永禄5年(1562)だから信長の長篠の戦の13年前、鉄砲種子島伝来の15年後となる。この戦いのそもそもの原因は、直家が三村の娘に惚れて申込みをしたのに見下され断られた遺恨から始まったと語れている。
城跡からはこの悲惨な合戦のあった岡北地区、半田山が一望できる。馬場と呼ばれる広場と磐座があり、この磐座に一部が恩徳寺稲荷の横に移されている。ここを出て少し進んだ所に、切掘りがあった。
操山方向に330m歩き、急な階段を190m登って萩の塚古墳に着いた。操山の古墳100基の一つの円墳(φ10×H2.5m)で、横穴式石室(L8.2×W1.9×H1.9m)も持つ6世紀後半の家族墓でした。
215m旧坂を下り、つばきの森のあるふれあい辻を通り330m歩いて12時半ごろ旗振台古墳・展望所に着いた。旗振台古墳は5世紀後半の27×4mの方墳で、剣、メノウ玉など多数出土している。ここで江戸時代に大阪の米相場を京橋に旗を振って知らせていたことにより名前がついた。今は操山も雑木林だが燃料の薪の採取により禿山に近く見通しが良かった。展望所で昼食を食べ、児島半島、児島湾、百間川河口の岡南地域を見ながら、高島の神武天皇の行宮、沖新田、一~九番の由来など説明を聞きました。(続く)

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