半田山縦走


P1050673 P1050683 P1050689 P1050699 P1050703 P1050708 P1050725 P1050727 P1050735 P1050748 P1050753 P1050760 P1050763 P1050767 P1050772守屋益男氏の登山道詳細図によると法界院駅より理大を登ることになっていますが、法界院に車を止め登りました。登山道があるか確かではなかったのですが、奥の墓地の頂上まで上がると、操山が正面に見えました。日本の戦いで最も死者が多かったのが6000~8000人と言われますが、創作かもしれませんが、明善寺城合戦では、16000人がしかも1日で死者が出たといわれています。これは三村・毛利軍2万が宇喜多直家5千の計略に掛り、崩れて笹ヶ瀬方面に逃げ、一挙に旭川を渡れない所を追撃し鉄砲を撃ちまくったと云われ、道、田に死体が転げまくっていました。残酷な地獄の様相です。関が原では鉄砲が使われなかったと云われています。当にこれが眼下に見えたであろう場所です。当時は北長瀬が出来て間がないころで、百間川もなくほとんどが沼地だったでしょう。この後、今村宮は直家が岡山城を造る際、八幡宮があった所へ移したとされます。
境界のフェンス沿いに歩み、理大の研修棟の裏に出ました。所が網フェンスで繋がっていて門も閉めてありました。金網と糸網の少しの隙間を抜けました。太っていると通れないかもしれません。理大の受付で聞いて津高グランドへのゲートの横を通って、ダイミ山の山頂に着き、昼食をたべました。160mと操山と同じ高さですが周りは雑木林で市街地は見えません。
半田山は岡山大学農学部の演習林となっていますが、全く雑木林で岩もなく、周りも見えず目印が全くありませんでした。京山の下の伊福町は古くはタタラ製鉄が盛んで、それに使う木炭用に木を伐採し、禿山となり、更に江戸時代も薪を争って取った為、その状況が続いたようです。
津島小学校の裏を通り、烏山に移りました。七つグロ古墳に行きました。三世紀後半に造られ前方後円墳で、墳丘の規模は、後方部の辺20m、高さ2.6mで、前方部の最大幅は15m、高さ2.4mを測り、墳丘全長は45.1mとのことですが、サッパリ古墳らしく見えませんでした。特殊器台が出土したとのことで期待したのですが。その先に獅子岩の広場がありベンチもありましたが見晴はサッパリでした。戻り石像に寄りましたが個人が阿弥陀様をお祀りしているだけでした。更に明誠学園に向かって降りると尾治針名真若比咩神社(おちはりなまわかひめじんじゃ)があり100mほどの長い石段を上ると拝殿の祠がありました。元三野貯水場の南の御埼宮内にあったのをここに移設したようです。半田山はこの宮の針田山から来るとの説がありいわくあるお宮のようです。
妙善寺に寄りました。日蓮宗の布教に来た大覚僧正のゆかりの寺で、この寺から矢坂山の富山城主松田に呼び出され大論争の上、松田が信者になってしまった逸話があります。
岡山大学前を通り法界院に戻りました。

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