行くも帰るも天国か地獄


ロサンゼルスの南加岡山県人会慰霊碑の裏面に書いてあった明治2年に渡米した高梁藩士に興味があり、山田方谷探訪会の下調べのため高梁を訪れる機会がありこの点について聞きました。

 板倉勝静は、幕末の高梁籓藩主であり幕府老中であった。幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで敗れ、朝敵となり、勝静の警備隊約150名が松山に帰されることとなる。ところが玉島まで逃れたところ、備前籓に捉えられ、その隊長の熊田恰は一人責任を取って袖木本家の西爽邸で切腹することとなる。慶応4年1月22日(1868年)のことである。この時の血飛沫は天井まで達し今でも残っている。それにより部下の助命と藩の安泰、戦火の回避を嘆願が認められ、部下は高梁藩に返され、玉島・高梁は戦火から免れ、玉島の羽黒神社境内、及び高梁の八重籬神社境内に熊田神社として祀られている。

一方板倉勝静は、松平定信の孫(8代将軍徳川吉宗から数えれば玄孫にあたる)に生まれ、幕府(徳川家)を見捨てることは出来なかった。大阪より徳川慶喜と共に江戸に帰った後、日光、宇都宮を流転し、榎本に促されて一先ず函館へ向かう事となる。勝静ら三家の家臣は大江丸に乗り組み大島圭介以下3,000の人数もそれぞれ分乗して蝦夷の地の鷲木沖に到着し上陸した。榎本らは勝静を鷲木に残し五陵郭を本営として蝦夷政府を樹立した。山田方谷らはこの勝静の状況を知り、満州ないし西洋亡命を画策した。西郷熊三郎ら4名が赴き勝静と協議した。洋行の決心した勝静であったが、三島中洲らが用意した2000両をエドワード・7スネル(武器商人)が持ち逃げしてしまった。渡航費がなくなり松山に連れて帰ることとしたが、英国船の定員の関係で依田織衛ら8名は蝦夷地に残り、辻七郎左衛門ら6名が従った。東京に着いても洋行の金を探しているうち、官兵に捕えられ、自訴状を書かされ、謹慎とされた。山田方谷は勿論、門弟の努力により明治8年に高梁に戻ることとなった。

 板倉勝静、山田方谷、藩士が海外まで目を向けていたことはわかるが、高梁藩士が函館で戦った事実はなく、同行した士は少なく、渡米に成功して記録は今の所見つからない。

しかし、児玉先生によると新選組の船に乗せてもらって函館に渡った藩士がいるとのことでした。

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