学び舎の地


岡山市北区北長瀬の白鬚宮の創建が平安時代中期であり、其当時の村の名前が「市久保」で干拓、開墾して誕生しました。大安寺庄、鹿田庄、野田保は記述が多いのですが市久保はその名前が記されるのみでした。中仙道以南は戦国時代、江戸時代に入って前田、斉藤、虫明、長瀬、和気氏などが一族郎党によって干拓、開墾を進め村を形成した様です。其様子は、昭和22年まで御南中学の佐藤勲先生が「あけゆく郷土(御南4ケ村)」に書かれています。さらに、昭和65年に操山高校の教諭のとき「目で見るあけゆく郷土(岡山市御南学区)」の中で、御南中学辺りを「平吉」が開墾し、昭和13年に笹ガ瀬川の水路を直線にすることにより今保より切り離されたことを知りました。

50年ぶりの同窓会の後、平吉の南端あたりの墓地にそのいわれを書いた案内板があるとのことで訪れました。「平吉村の由来 平吉は嘉永19年頃(330年余り前)は、芁々たる葦原洲であった。ここに斉藤平左衛門氏が開墾を始められ、そこに奥州仙台 白石の家中で、知行600石の鉄砲組頭、足軽30人を預かる浦田新左衛門氏が大阪城へ出陣の帰途立ち寄られ、斉藤氏と協力して開拓、10町歩余りを、完成させたが、斉藤氏は、浅口郡只見の新開地へ転居され、浦田氏のみ農耕に励まれたのであった。浦田氏は、奥州仙台 白石の生まれの為、白石平吉と名を改められた。平吉の開墾を永く讚賛する為其の名を地名として平吉(ひらよし)と称する様になった。 明治7年地方改正で平田村に改号して以来現存します。時は流れ拾し、平成17年8月岡山西バイパス工事の開通にともない、この橋の麓に眠ることなく先人達の苦労に思いを至し相恩感謝の誠を捧げ、その偉業を讃える次第です。平成17年8月吉日 世話人 浦田三郎」と記してありました。はるばる奥州より帰農したことは驚きでした。墓は白石姓が多く浦田姓も見かけます。前者が花の家紋で粋なものです。笹ガ瀬川の対岸には、戦国時代から江戸時代には繁栄していたと思われる「今保港」跡があります。やはり江戸時代から繁栄した「米倉」に養子に行った家には二層の櫓門があり関が原の合戦の後、帰農して米倉を開墾したと聞いていますが米倉史にはでてきません。

その墓地の南東に笹ガ瀬川の面影を残す河川がありました。川岸には雁木が多数打ち込まれています。大野学区にあった笹が瀬川の三日月湖の「大川」が昭和35年ごろ区画整理により埋めて立てられるまで見かけた光景です。小学校に通学する時袂の道を寒風にさらされて通った思い出があります。懐かしい光景で鴨も多数泳いでしました。おかやま福祉の郷、岡山西養護学校、健康づくり財団、ポリテクセンター、御南中学校、の南側手をぐるっと回ってまた西に路をたどって笹ガ瀬川の土手に出ました。この地域が平吉村であったのでしょうか。50余年前に通学していた頃は思いもよらないことでした。

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