矢坂山の城郭


矢坂山の城郭

 日本城郭全集に次のように書いてあります。

 永禄十一年(一五六八)、金川城を攻めた宇喜多直家は富山城をも陥れた。城は炎上し、城主横井土佐守は自害して果て、松田氏はここに滅んだ。

 永禄十二年、直家は富山城を修復して、ここに浮田忠家を居城させた。忠家はこの城を拡張し、野殿山城を西の出丸に、大野城を東の出丸とし、魚見山城には見張所を置いた。現在、残っている城地は忠家の時に築かれた城の縄張りである

 城壁があったどうかは書いてありませんが、もし完成していたら壮大なものだったでしょう。

 大野村誌には次のように書いてあります。

 平賀元義筆記に次の如く述べてある。『宇喜多直家岡山在城後播磨備中を手に入れし上は、御野郡富山城を本城とし、西川を二筋に分け、津島の下より分て今の用水上伊福の前より野殿ヘー筋を流し、一筋は津島川の下座主川へ落し、ザブと言う所より西へ今の矢坂の北の川筋より野殿へ流し、富山別所の山を取り入れて、大城とせん事を立てられしなり。たとい一二年籠城するとも、薪炭の憂なく、水懸りも能く究竟の城地なるべし。然る処、直家病死ありければ、秀家の代にも其の事思いけれども、朝鮮の軍の事につき延引なり、程なく家中の騒動ありて其ままさし置かれける所、関ケ原出来て、宇喜多亡びけるなり。大挙を直家思い立たれし事借しき事なり。此の城を築かん事の評議ありしを宇喜多の軍師穴田伊賀介語る』と

 現在の矢坂山を南から写し城を重ねた 

Explore posts in the same categories: 市久

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中


%d人のブロガーが「いいね」をつけました。