富山城主ゆかりの松田氏を囲む会


 

富山城主ゆかりの松田氏を囲む会
 8月2日(月)に神奈川県逗子在住の松田勝徳氏と香川県多度津の弟善徳さんが矢坂の北向八幡宮に来られました。佐藤芳範氏が電子町内会に松田屋敷について書いているのを見て、情報交換が始まり、このプログを紹介いただき、「矢坂山富山城跡」をお送りしていたところ、香川の法事の帰りにお寄りくださいました。
 「市久会」のメンバー中心に14人が集まり、午前中は松田勝徳氏の話と郷土史家の間野行治氏の話を聞き午後に松田氏縁の地を見学しました。
 松田家は神奈川県大井松田インター近くの松田庄に発し、備前には鎌倉時代の弘安8年(1285)に松田元保が伊福の郷を加領し、正慶2年(1333)に松田元国が矢坂に引越し居住し、松田元喬が康永2年(1342)に富山城を築いたと説明がありました。富山城の時代に備前に日蓮宗の布教に来た大覚大僧正を城に招き大論争の後、布教を許し備前法華として現在も生活に大きな影響を残しています。 
 元喬の子の元泰は文和4年(1355)に金川に本城を築き、9代元勝の時に玉松城と命名し、昨年命名500年に当たり500年祭が行われ記念碑建立と記念誌も発行されました。毎年4月に全国の松田家ゆかりの人たちが集まり「玉松会」が催されているそうです。
 備前松田が13代続いたのち宇喜多直家に滅ぼされ、高松城水攻めの前哨戦の冠山城の戦いに清水宗治の家臣として松田氏の名が登場したのち「讃岐松田」が成立するまで37年間の空白があり、そのあたりを解明することが今回の訪問の目的でもありました。
 間野行治氏からこの空白期間の調査結果や砂田と名を変え吉備津彦神社近くに累系が現在もおられる話しがありました。
 さらに平安時代中期に最初に富山城を作ったとされる北向八幡宮の宮司の富山氏とは、讃岐松田の3代目の元明が備前富山氏の娘を迎えるなど一方ならない縁があるそうです。
 午後は、久米の鉄鋼団地ないにあったとされる松田屋敷跡を訪れ、境目川の東と推定されますが発掘調査されないまま鉄鋼団地が立てられたため場所、広さは特定できません。さらに中世備前法華信徒が東国日蓮宗三本山に旅立つ港として使った今保港を見ました。今でも船着場の名残をとどめ、隣には題目石や大賀邸がありました。
 吉備津彦神社ではお田植え祭りでにぎわっていました。そこを少し西に行った山麓に松田家と砂田家のお墓が混在してありました。間野氏によると備前松田の系図があり、近所に住まわれているそうです。
 辛川の180号線交差点の西土手を少し登ったところに、大覚寺があり題目石は本殿の中にあるとかで見れませんでした。
 続いて、高松城の北の足守地区にある冠山城を遠望し、高松城跡を訪れました。勝徳氏は父親と20年前に訪れて以来とかで、先祖が讃岐に渡前の軌跡を偲ぶ思いであったでしょう。資料館は月曜日休館で、冠山城の資料はお見せできませんでした。
 再来年の玉松会は富山城跡を訪問することを企画したいとの申し出があり市久会でも楽しみにしています。
 
 

松田屋敷跡今保港跡松田(砂田)墓地大覚寺高松城跡

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