中世の史蹟 野田・今


 
 中世の史蹟 野田・今
 間野さんに中世のお墓と今村宮を案内いただきました。墓地は、野田と今の数箇所です。巨大な多宝塔は歴史を感じます。転がっているような小さな多宝塔も中世の墓だそうです。屋根付の墓は、それより古いそうですが、神式の墓か物置ではないでしょうか。
 宇喜田の時代は今村辺りは野田・市久の潮止め堤防の外にあり、島であったか堤防の外に広がっていった州であったと思われます。中仙道の白鬚宮は松島に建立され市久とは長い間海で隔てられていたと記録されています。また、今村宮の北向きの参道は鴨方往来に出て、旧2号線と交差し岡山ドーム辺りに通じています。この辺りは竹通と呼ばれ、市久保と野田保の堺辺りになり、高柳の前田城跡に繋がり、前田の殿様は後に今村の開墾をしたと伝えられ、運河として行き来していたのではないでしょうか。参道と往来との交差する北東には、池田の殿様が立ち寄ったとされる佐藤家があり「花屋」の看板が長く掲げられていたそうです。市久保は江戸時代には辻と北長瀬に分かれ、北長瀬は池田和泉の知行地とされています。
 (参考) 
 墓ja.wikipedia.org/wikiの歴史は、平安時代に仏教の伝来に伴い石工の技術も渡来人によってもたらされ、供養塔や墓石としての五輪塔、宝篋印塔、宝塔、多宝塔、層塔などが支配階級の間で出現した。その後、鎌倉時代~室町時代にかけて、禅宗の到来とともに位牌戒名が中国から伝わる。その影響からか、位牌型の板碑や今日の墓石に近い角柱型のものもつくられるようになった。江戸時代になると檀家制度が確立し、人々に先祖に対する供養や葬儀、墓など仏事が生活の中に定着したことにより、庶民まで墓石を建立するようになった。墓石に家紋を入れるようになったのはその頃からである。 
 今村宮www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgiは、建武元年(1334)の創建で、岡山市の中心部である内山下の榎の馬場(現在の岡山県庁前)に、奥州白川の城主である菖蒲七郎左衛門の子・正寿が勧請した。
 天照大御神、八幡大神、春日大神の三神を奉祀したので、「三社明神」または、「三社宮」と称し、約250年にわたり、岡山市の中心部の産土神として崇敬された。
 天正8年(1580)岡山開府の祖といわれる宇喜多直家が岡山城城郭を拡張するにあたり、付近の土地を整理・移転した。そこで、三社明神は今野村に祀られている八幡宮に御遷宮され、二つの神社は合祀されて現在の今村宮となった。

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