乞食川


乞食(谷)川

 

 魚見山の麓にあった元の大野小学校の西を流れる小川が「乞食(谷)川」だと間野さんに聞きました。現在は魚見山川の標識が立っています。岡山平野の古来の河川図に座主川、観音寺、能登川用水と並んで矢坂山を南に向かって流れる乞食川が書かれています。大安寺の庄を潤していた川であろうし、その名前の由来に興味を持っていました。

 下記のように、「僧侶は比丘(びく)というが、これはサンスクリット語の音写訳で、「食を乞う者」という意味である。」との記述で、乞食川でなく、僧侶川、比丘(びく)川でもおかしくありません。笹が瀬川を吉備津に向けて渡る比丘橋があり、多くの言い伝えがあります。さらに、大きな石仏が矢坂山より滑り落ち麓に祀られています。大安寺庄にゆかりもしくはもっと以前に矢坂山に僧侶の暮す大寺があってもおかしくありません。矢坂山の歴史の中で古墳時代後から富山城の平安中期の間が欠落しています。この辺りの観点から矢坂山を散策してみるのも面白いと楽しみにしています。

 安易に魚見山川と呼ぶようになったのも疑問です。古事記川とでもしておけば風流でよかったかもしれません。

 

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

乞食(こつじき)とは、

本来は仏教用語である。比丘(僧侶)が自己の色身(物質的な身体)を維持するために人に乞うこと。行乞(ぎょうこつ)。また托鉢。十二頭陀行(じゅうにずだぎょう)の一つで、これを清浄の正命と定める。もし自ら種々の生業(なりわい)を作(な)して自活することは邪命であると定める。

上記の事項が転じて、僧侶でない者が路上などで物乞いをすることを乞食(こじき)と呼ぶようになった。

 由来

古代インドのバラモン階級では、人の一生を学生期・家長期・林住期・遊行(遍歴)期という、四住期に分けて人生を送った。このうち最後の遊行期は、各所を遍歴して食物を乞い、ひたすら解脱を求める生活を送る期間である。またこの時代には、バラモン階級以外の自由な思想家・修行者たちもこの作法に則り、少欲知足を旨として修行していた。釈迦もまたこれに随い、本来の仏教では修行形態の大きな柱であった。

 

特に釈迦の筆頭弟子であったサーリプッタ(舎利弗)は、五比丘の一人であるアッサジ(阿説示)が乞食で各家を周っている姿を見て、その所作が端正で理に叶っていることに感じ入り、これを契機に改宗して弟子入りしたことは有名な故事である。このように仏教では乞食・行乞することを頭陀行(ずだぎょう)といい、簡素で清貧な修行によって煩悩の損減を図るのが特徴である。

 

また、僧侶は比丘(びく)というが、これはサンスクリット語の音写訳で、「食を乞う者」という意味である。これが後々に中国で仏典を訳した際に乞食(こつじき)、また乞者(こっしゃ)などと翻訳されたことにはじまる。

 

『大乗義章』15に「専行乞食。所為有二。一者為自。省事修道。二者為他。福利済世利人」、『行事鈔』下に「善見云。三乗聖人悉皆乞食」、また「善見云。分衛者乞食也」とあり、『法集経』に「行乞食者。破一切憍慢」、『十二頭陀経』に「食有三種。一受請食。二衆請食。三常乞食。若前二食起諸漏因縁。所以者何。受請食者。若得請便言我有福徳好人。若不請則嫌根彼。或自鄙薄。是食憂法則能遮道。若僧食者。当隋衆法断事擯人料理僧事。心則散乱妨廃行道。有於是悩乱因縁応受乞食法」などとある。

 

 修行僧の乞食

仏教では、修行僧が檀家の家々(近隣に限らない)を訪問したり、寺院の門前や往来の激しい交差点等で直立するなどして施しの米や金銭を受ける行為。行乞(ぎょうこつ)、また托鉢という。これが本来の乞食(こつじき)である。

 

 

 

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